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entry.1 イオンジャスコグループ御曹司次男・岡田克也鳩山内閣外務大臣民主黨衆議院議員ノ不適切名言集2
!)《國歌「君が代」は民主主義に相応しくないので違和感を感じる。民主主義國家に相応しい國歌があっていいんじゃないか》!)《九割方単位を取っているので、徑歴を詐称したことにはならないのではないか》!)天皇陛下の御言葉に《わざわざ國會に來るんだから、よく考えてもらいたい》と注文
イオンジャスコグループ御曹司次男・岡田克也鳩山内閣外務大臣民主黨衆議院議員ノ不適切名言集2
entry.2 界面活性剤(乳化剤)の人気ソング
日頃使い慣れない言葉で界面活性剤(乳化剤)に歌を歌ったところで、大した意味もないし、それほど大きな思い出にもならないでしょう。でも、今は、そんな卒業ソングの代表曲、「仰げば尊し」の歌詞なんて知らない子も珍しくありません。因みに、小学校では「今日の日はさようなら」、中学校は「巣立ちの歌」、高校では「贈る言葉」を歌った記憶があります。後、「君が代」も一度も歌った事ないような気がする、「蛍の光」は歌ったけど・・・。ところが、この間発表されたある界面活性剤(乳化剤)ソングの人気ランキ...
界面活性剤(乳化剤)の人気ソング
entry.3 使い捨て 手袋
使い捨て 手袋オークリー バッグオークリー サングラス ハーフジャケットタミヤ ホーネットduvetica ares 44手袋 レディースオークリー splice君が代の憐れみ?keenみなみけ ねんどろいど
使い捨て 手袋
entry.4 バトン&本日二回目の更新
音楽バトン Q1 どの音楽ジャンルをよく聞きますか? A1 最近はV系かなQ2 今のあなたのヘビーローテーション曲は何? A2 the GazettEの未成年Q3 好きな歌手はいますか? A3 強いて言うなら the GazettEQ4 歌詞を見ずに歌える曲ってある? A4 UVERworldの激動とかJanne Da Arcの月光花とかその他色々Q5 自分が知ってる中で一番古い曲はなんですか? A5 君が代(笑)Q6 音楽
バトン&本日二回目の更新
entry.5 君が代
君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまではい 歌詞のせる俺の一番好きな歌 爆嘘ですさーせんやっとテスト終わった勉強から解放されましたあーもーしんどい風邪なんか引きたくないのによ
君が代
entry.6 この世の地獄!731部隊・南京大虐殺
「ノブの日記」 のタグをクリックお願いします!!全世界の究極の祈り・願い!!「No more war!!」「武器よ!さらば!!」 「怨」きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!「日の丸」・「君が代」反対!!(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)新しい日本!!「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)(時効なき戦争責任・戦争犯罪)●731部隊『死の工場』(隠蔽された731部隊)(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)6章 人体実験—「秘中の秘」 ? 関東軍司令部は、ソ連との間で想定される戦争の準備に、常に熱心だったので、石井に与えられていた白紙委任を、平房および安達における、凍傷の結果に関する研究への従事まで広げた。司令部は、いざ戦争となったら、戦闘の多くは氷点下の気候条件で行われるであろうと推測していた。科学者石井は、そのような要求に対して彼特有のエネルギーと献身をもって応えた。 凍傷の試験は石井の専門になった。この分野における試験が何年にもわたって非常に日常的なものとして行われていたので、731部隊のメンバーは、半分凍った被験者を扱って仕事をすることを毎度のことで当たり前に受け止めていた。裸の男が平房内の特別に仕切られた凍傷室に入れられて、透明な窓越しに観察された。時には、彼らの体はフックですっかりとめられることもあった。気温の急激な変化に対する肉体の反応を測定するよう特別な装置が設計されているのである。男たちは、時には女も、長時間、氷点下に達しそうなあるいは氷点下の気温にさらされた。その後彼らは、さまざまに異なった実験技術を使って、文字通り解凍された。※いくらソ連との戦いに備えるといっても凍傷実験はあまりにも被験者にとっては苦痛であったろう!!想像しただけでも、身の毛がよだつ!!よくも平気?でこんな実験をしたものだ!!●南京大虐殺 「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 夫ないしは妻の被害劉学珍(女、67歳)の証言 1937年の12月に、日本の侵略軍が南京に入ってくる何日か前に、家は走馬巷5号から三条巷の難民区へ避難しに行きました。夫の劉文宜はその時22歳で夫の兄の劉文関は28歳でしたが、日本軍が入って来た明くる日の午前に、日本兵が夫の劉文宜の着ていたセーターを脱がせ持って行ってしまいました。昼ご飯を食べたら、日本兵の一群がまた三条巷の難民区に来て、劉文宜と兄の劉文関とを一緒に捕まえて行きました。その日三条巷や四条巷などみんなで5本の横丁で、捕まって行った人が多く、若い人は全部捕まって行き、年取ったのがみんなひざまずいてゆるしを求めても、やはり駄目で、日本軍はその人たちをみんな無理やり引っ張って行き、夫と夫の兄とは、日本軍が捕まえて行った後もう帰ってきませんでした。その時私は妊娠7ケ月で、金陵女子大学のヴォートリンさんの所に避難しましたが、聞くところでは夫と夫の兄やあの若い人たちは、みんな日本軍に下関の岸辺まで連行されて殺害されたのです。私は翌年(つまり1938年)の2月10日に、走馬巷5号の家に戻りましたが、その時私は21歳で、夫は捕まって行って殺害され、物価は上がり続け、妊娠していて生活は困難で、家の物を売ったり、人の物を縫ったり洗濯したりして苦しい日々を過ごすしかありませんでした。日本軍が我が家にもたらした災難は、私は永遠に忘れられません。(王瑞屏と魏福仲が記録)●女たちの戦争と平和資料館常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)特設展証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち午後1時より6時まで入館料500円 休館 月・火 03−3202−4633 早稲田奉仕園AVACOビル2階jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 ※シャープの電子辞書パピルスの「日本史辞典」に「毒ガス戦」について次のような記述があった。毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。日本政府は考えてください!!日中合同集団検診に国のお金を!!毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!●731部隊と天皇欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?(ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。) 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。●国の公式見解 731部隊について国会で取り上げられたことがある。1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)●マッカーサー・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く—。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)・秘蔵の新妻ファイルから読み取れる「免責の系譜」。1945年秋に始まるアメリカ軍の尋問当初から、731部隊には戦犯免責が付与され、部隊幹部、関係者は戦後社会へ復帰の足がかりを確保した。そして47年に人体実験が発覚した際にも、最初の免責が効を奏し、実験データと引き替えにアメリカ本国からも公式に免責が確認された。これで彼らに、戦後の表社会を公然と歩む担保が名実ともに与えられた。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)●昭和天皇と731・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)●遅すぎた「聖断」・いま、私の手元に、1988年6月23日の沖縄慰霊の日にちなんだ沖縄琉球放送(RBC)制作の特集番組「遅すぎた聖断—検証・沖縄戦への道—」の脚本がある。 ディレクターの中里雅之氏の脚本による番組は、昭和天皇の「聖断」が、1945年8月13日ではなく、もっと早くなされていたならば、同年の4月1日の沖縄本島・読谷(よみたん)への連合軍上陸によって本格化する沖縄戦の開始もなく、あの「鉄の暴風」と呼ばれた、壮絶な戦いの中で15万人という死者を出すことはなかったであろう、という歴史事実への思いが強く打ち出された優れた作品であった。 そこでのキーポイントとして特に強調されたのは、沖縄戦が開始される1ヶ月半前に近衛文麿によって昭和天皇に提出された早期の「終戦」を訴えたいわゆる「近衛上奏」に対して、「もう1度戦果を挙げてからでないと」と一蹴した昭和天皇の言葉であった。戦力の底をついていた日本陸海軍の現実を直視することをせず、ひたすら沖縄守備軍と沖縄民衆に絶望的な戦いを強いた帝国陸海軍最高司令官としての昭和天皇の非合理的な判断と、「国体(=天皇制支配国家体制)護持」の1点にのみ執着する余り、甚大な犠牲を生み出すことになった、昭和天皇の〈不決断〉と〈無責任〉とを厳しく衝いた内容であった。・・・・【『「聖断」虚構と昭和天皇』:纐纈厚著:新日本出版社:179頁】※もちろん、沖縄戦の前に停戦もしくは終戦をしていれば、沖縄戦もなかったし、広島・長崎の原爆・日本の都市への多数の空襲・満州でのソ連参戦での大混乱もなかったであろう!
この世の地獄!731部隊・南京大虐殺
entry.7 朝青龍の功罪、嫌韓→親韓・2005年「キムチ野郎」発言、2006年WBC日本応援と君が代斉唱→2009年「誕生パーティ」顔を揃えた「黒い人脈」パチンコ業者、暴力団幹部、2010年ヤクザがこぞって被害者を探した「2千万円示談」 暴力事件・朝青龍 さらば黒い横綱 〜週刊文春
↓忘れずに、最初にクリックお願いします。↓朝青龍、涙の引退会見http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100204-00000537-sanspo-spo朝青龍、涙の引退会見「相撲に対する悔いはない」2月4日16時18分配信 サンケイスポーツ 現役引退を表明し、引退届けを受理された横綱朝青龍(29)は4日、師匠の高砂親方(元大関朝潮)と会見を開き、時折涙を見せながら「皆さんに迷惑をかけた。責任を感じている」「相撲に対する悔いはない」と
朝青龍の功罪、嫌韓→親韓・2005年「キムチ野郎」発言、2006年WBC日本応援と君が代斉唱→2009年「誕生パーティ」顔を揃えた「黒い人脈」パチンコ業者、暴力団幹部、2010年ヤクザがこぞって被害者を探した「2千万円示談」 暴力事件・朝青龍 さらば黒い横綱 〜週刊文春
entry.8 <国歌斉唱・不起立>教職員の氏名収集を継続…神奈川県教委(毎日新聞)
神奈川県教育委員会が国歌斉唱時に起立しなかった教職員の氏名を収集し続けている問題で、県教委は2日の定例会で、収集を継続する方針を決めた。県個人情報保護審査会は1月20日、07年に続いて「県条例で取り扱いを禁じる思想信条に該当する」と収集した情報の利用停止を求める2回目の答申を出したが、再び収集を強行することになった。 定例会では、情報収集について「学習指導要領に基づく指導で、思想信条に触れないのが大前提」との意見が大勢を占め、出席した委員5人が継続を了承、これまでに収集した情報も破棄しないことを決めた。「行政の公正確保のために設置した機関の答申を無視するのは悪質」と答申の順守を求める市民団体の請願は不採択とした。 この問題では、教職員らの不服申し立てを受けた審査会が07年10月に収集した情報の利用停止を答申。これを受け県教委が条例の運用について諮問した県個人情報保護審議会も08年1月に「収集は不適当」と答申した。これを受けて県教委は07年春までの情報を破棄したが、審議会答申が「最終的な職権行使は県教委に委ねられている」との判断を示したことなどから、08年以降も収集を続けていた。【木村健二】 【関連ニュース】 君が代不起立:元教職員側が逆転敗訴 東京高裁 不起立教員:神奈川県教委が情報収集 審査会、利用停止を 国歌不起立:教員の氏名「収集停止を」 3回目答申−−神奈川 国歌不起立:教職員名収集 知事、県教委の方針容認 /神奈川 国歌不起立:情報破棄、収集停止を 教職員が県教委に求める−−審査会答申 /神奈川 ・ 前年上回る1.0倍=出願状況の中間集計−国公立大入試(時事通信)・ <札幌テレビ放送>ひき逃げ事件で別人の顔写真を2回放送(毎日新聞)・ 2次補正今夕成立 亀井氏「うるさい」発言で参院予算委理事会紛糾(産経新聞)・ 春闘 首相「定昇難しい」(産経新聞)・ 【中医協】認知症患者の退院調整加算などを新設(医療介護CBニュース)
<国歌斉唱・不起立>教職員の氏名収集を継続…神奈川県教委(毎日新聞)
entry.9 平成の世は永久にっ!!
陛下の体調、順調に回復(時事通信) - goo ニュースよござんした^^。小学生の頃から「君が代」が大好きで起立せずに着席しておりました。 祖母の「教育勅語」を燃して「芋」を焼いたら、大変に不味うございました^^。(嘘)
平成の世は永久にっ!!
entry.10 サザンオールスターズ (桑田佳祐) - 君が代
サザンオールスターズ (桑田佳祐) - 君が代.....Southern All Stars - Kimigayo (歌舞伎町ver.)*映像なし*Kuwata Keisuke plays comic version of kimigayo.
サザンオールスターズ (桑田佳祐) - 君が代
entry.11 石井竜也 - 君が代 ( 米米CLUB ) 〜 Tatsuya Ishii - Kimigayo
拾い物です。"米米CLUB"、石井竜也さんの 国歌独唱。サッカー日本代表 日本2-0ペルー 対戦。Japan National anthem ' kimigayo ' song by Tatsuya Ishii ( kome kome club vocalist) before soccer match between japan vs peru.Japan won the match 2-0
石井竜也 - 君が代 ( 米米CLUB ) 〜 Tatsuya Ishii - Kimigayo
entry.12 高橋 源一郎
13日間で「名文」を書けるようになる方法/高橋源一郎¥1,890Amazon.co.jp一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))/高橋 源一郎¥735Amazon.co.jpさようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)/高橋 源一郎¥1,260Amazon.co.jp日本文学盛衰史 (講談社文庫)/高橋 源一郎¥1,000Amazon.co.jp大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)/高橋 源一郎¥1,785Amazon.co.jp優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕 (河出文庫)/高橋 源一郎¥735Amazon.co.jp君が代は千代に八千代に (文春文庫)/高橋 源一郎¥550Amazon.co.jp柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方/柴田 元幸¥1,470Amazon.co.jpニッポンの小説—百年の孤独/高橋 源一郎¥2,350Amazon.co.jpおじさんは白馬に乗って/高橋 源一郎¥2,100Amazon.co.jpいつかソウル・トレインに乗る日まで/高橋 源一郎¥1,890Amazon.co.jp虹の彼方に (講談社文芸文庫)/高橋 源一郎¥1,155Amazon.co.jpジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)/高橋 源一郎¥1,155Amazon.co.jp戦争文学を読む (朝日文庫)/川村 湊¥756Amazon.co.jpミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ/高橋 源一郎¥2,940Amazon.co.jp私生活/高橋 源一郎¥1,785Amazon.co.jp現代詩手帖特集版 高橋源一郎/著者不明¥1,680Amazon.co.jpことばの見本帖 (ことばのために)/荒川 洋治¥1,785Amazon.co.jp顰蹙文学カフェ/高橋 源一郎¥1,470Amazon.co.jp文学なんかこわくない/高橋 源一郎¥1,470Amazon.co.jpゴーストバスターズ—冒険小説/高橋 源一郎¥1,890Amazon.co.jp
高橋 源一郎
entry.13 この世の地獄!731部隊・南京大虐殺
「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!全世界の究極の祈り・願い!!「No more war!!」「武器よ!さらば!!」 「怨」きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!「日の丸」・「君が代」反対!!(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)新しい日本!!「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)(時効なき戦争責任・戦争犯罪)●731部隊『死の工場』(隠蔽された731部隊)(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)6章 人体実験—「秘中の秘」 !) 炭疽病実験は、1943年から1944年にかけて定期的に、安達で行われた。一般に科学者たちは、それぞれの試験で10名のマルタを使用した。平房の炭疽菌製造チームの長が、1943年から1944年にかけて実験の監督をするために数回安達を訪れている。彼は、そこで試験に使われるマルタは「中国人らしき被実験者」と述べている。彼らも、ペストに感染させられた「丸太」と同様、地面に立てられた杭に縛りつけられた。それから炭疽菌で満たされた爆弾がそのそばで爆発させられた。その炭疽菌のエキスパートは、いくらかプロフェッショナルのプライドを込めて、次のように記している—「被実験者の一部分は炭疽病に感染して、後に私が知ったところでは、彼らは死亡した」。にもかかわらず、安達における炭疽病の実験は期待外れのものとなった。731部隊の専門家たちは、終戦までに、ものになる炭疽菌撒布システムを開発することができなかった。※炭疽菌を詰めた爆弾の人体実験も同じように行われ、実験ははかばかしい結果が出なかったけれども、多くの人が実験によって死んでいる!!本当に酷いことだと思う!! ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 夫ないしは妻の被害哈福珍(女、71歳)の証言 1937年の冬月に、日本軍が南京を占領しました。その時家は四条巷で、夫の劉延培はあの年29歳でした。日本軍が至る所で青壮年の男子を捕まえ、夫も日本兵に捕まって行ったのですが、一緒に捕まったのがまだたくさんいました。日本軍はその人たちを囲いの中に閉じ込め、それから縛って下関の岸辺まで連行し、機関銃で殺害しました。(李紅珠と馬瑞芳と楊鳳珍と鄭蘭芳が記録)●女たちの戦争と平和資料館常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)特設展証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち午後1時より6時まで入館料500円 休館 月・火 03−3202−4633 早稲田奉仕園AVACOビル2階jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 ※シャープの電子辞書パピルスの「日本史辞典」に「毒ガス戦」について次のような記述があった。毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。日本政府は考えてください!!日中合同集団検診に国のお金を!!毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!●731部隊と天皇 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。) 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】●昭和天皇の戦争指導戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)●国の公式見解 731部隊について国会で取り上げられたことがある。1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのかな?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?資料は返されている?・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。●マッカーサー・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く—。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)・秘蔵の新妻ファイルから読み取れる「免責の系譜」。1945年秋に始まるアメリカ軍の尋問当初から、731部隊には戦犯免責が付与され、部隊幹部、関係者は戦後社会へ復帰の足がかりを確保した。そして47年に人体実験が発覚した際にも、最初の免責が効を奏し、実験データと引き替えにアメリカ本国からも公式に免責が確認された。これで彼らに、戦後の表社会を公然と歩む担保が名実ともに与えられた。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)・731部隊の調査は、占領軍の法務部ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。・九大事件・・・1948年8月横浜軍事法廷において、以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。・ニュルンベルグ医者裁判・・・医者裁判(いしゃさいばん、英: Doctors' Trial、独: !)rzteprozess)は、1946年12月9日から1947年8月20日にかけてアメリカ合衆国がニュルンベルクで行ったナチ戦犯法廷。ナチス体制下で重役の地位にあった医師や医療関係者を裁いた。ニュルンベルク継続裁判の中では最初に行われた裁判である。23人の被告人が裁かれ、うち7名が絞首刑となった。裁判長はワシントン出身のウォルター・ビールス(Walter B. Beals)が務めた。その他の裁判官としてフロリダ州出身のハロルド・セブリング(en:Harold L. Sebring)、オクラホマ州出身のジョンソン・クロフォード(Johnson T. Crawford)などがいる。なお、人体実験の中心人物であるヨーゼフ・メンゲレは行方不明のまま死亡扱いとなり、1980年代になって逃亡先のブラジルで死亡が確認された。※ニュルンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より) ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。・アメリカの生物戦計画アメリカ軍が生物兵器を本格的に研究し始めたのは42年。ソ連やドイツが20年代、日本とイギリスが30年代にそれぞれプロジェクトをスタートさせたことからすると、出遅れた感は否めない。40、41年には731部隊を中心とした日本軍の中国への細菌攻撃があり、敵国日本のそうした動きも兵器開発の動機の1つになったとみていいだろう。・・・・・1、朝鮮戦争開戦以降、生物兵器を「報復」目的のみに使う従来の政策が抜本的に見直され、軍内で「報復のみ政策」の放棄が提言された。2、戦局悪化を受けて50年以降、生物兵器生産工場の建設と野外実験が始まった。・朝鮮戦争2つ目の「免責の系譜」を確認できる事件が、「日本ブラッドバンク」創立のおよそ半年前に勃発している。50年6月25日開戦の朝鮮戦争である。戦線がこう着状態にあった52年2月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国はアメリカ軍の細菌戦を非難する声明を発表。3月にはソ連のマリク国連大使が国連総会でこの問題を取り上げた。・・・・北朝鮮と中国が組織した科学調査団「国際科学委員会」の報告書は、この流行ペストについて?過去5世紀の間、朝鮮でペストが発生したことはなかった。?事件のあった2月は土地の気候からみて人間のペストがはやるには3ヶ月以上早すぎる—などの理由から、「第2次世界大戦中日本軍が細菌戦に使った」ペストノミが原因と結論づけている。またこうした内容を補強するかのように、報告書は以下の点を指摘した。・52年の初めごろ、細菌戦の指摘が出始める前に、石井四郎が2回、韓国を訪問したとの新聞報道がある。・石井四郎の助手がネズミの大量生産のために飼育所を運営しているとの新聞報道がある。 一連の細菌戦疑惑と石井をめぐる上記の2つの指摘が真実だとすると、戦犯を免れた日本側と与えたアメリカ側との間に新たな“共犯関係”が成立する。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)●昭和天皇と731・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していたので、これらの部隊がどのようなものになろうと意図してのか知っていたはずである、と議論をする人もいる、軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた—「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)・『731部隊−天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。【『731部隊の生物兵器とアメリカ』:ピーター・ウイリアム/デヴィド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 65頁】・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)・終戦 (ウキペディアより)1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。・(参考)第731部隊を撤収する時、上官の命令は「貯金通帳などはもはや紙切れも同然だ。731と確認されるようなものは一切焼却せよ。一切痕跡を残してはならない」「引上げ荷物はなるべく身の回りのものだけにせよ。荷物は2つだけ」。そう言われて私たちは家具や調度の大事なものは一切残すか焼却し、つましい生活で貯蓄してきたお金も捨てた。釜山だったと思うが、朝鮮銀行で千円渡されただけであった。さらに、新京と釜山でも、「731の痕跡をとめるな」の厳命のもとに、手に持っているものを2度に渡って焼却させられた。私たち夫婦に残ったものは、着のみ着のままのほかには、息子憲一の骨箱1つと憲次のおむつが残っただけであった。 これが8年間にわたる軍への奉公の総決算であったのだ。ところが、金沢から東京・千葉へのトラック輸送で、私たちが危険を侵してまで運んだものは、焼却を命じた最高幹部の豊かな私財と、貴金属を含む高価な実験用具などだったのである。 その後幹部は、帰郷すると一切言わざる、見ざる、聞かざるで、すべてノータッチであった。内々の連絡はあるようだが、幹部内の情報は私たち下々の者には一切伝わってこない。 私たちに与えられた任務は、今にいたるも次の3項目で、その後解除することもなく、今日に続いている。 1、郷里へ帰った後も、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。 2、あらゆる公職には就かぬこと。 3、隊員相互の連絡は厳禁する。 である。今でも私の目にこびりついているのは、平房を去る前、石炭山に軍刀を抜き、仁王立ちになった石井隊長の鬼気迫る形相である。隊長は全身を震わせ声をはりあげた。「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすような事があったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と。(越定男著『日の丸は紅い泪(なみだ)に』より●南京大虐殺 ※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷した兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。 731はもっと無視されているのかも知れない。 昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?※皇族と南京大虐殺・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)※東京裁判・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!※南京軍事法廷・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。●筆者が「聖断」の真相にこだわるのは、昭和天皇の戦争責任を明確にするためだけではない。それは、すでにさまざまな場で実行されてきた。それよりも、「聖断」そのものが戦前保守権力の戦後へのスライドの決定的要因であることを強調したいからである。その過程で昭和天皇の訴追が回避されて、天皇制が「象徴化」されることで延命を果たした。 それで、人間宣言から地方巡幸に始まる天皇の政治行為の中で、戦争責任を問われることなく、逆に戦後日本の復興と繁栄の最大の立役者とする作為的な位置づけが強行されていった歴史事実の究明が反故にされたことを問題としているからである。 言うならば、戦後日本の歴史は、その意味で虚構の産物としてあるのかもしれない。・・・・1980年代後半から90年代にかけて、アジア諸国民から一斉にあがった日本の戦争責任を問う声に対して、極めていびつな反応しか示し得なかった日本政府と日本人という問題の背後には、ここで指摘したような課題があったからである。 そのことは、昨今における靖国神社問題にも通底している。・・・・ 昭和天皇の信任を得て、首相の座についた東條英機内閣により開戦に及んだ戦争によって、甚大な被害を受けたアジア諸国民にとって、その東條英機ら、A級戦犯として処刑された軍国主義者と侵略戦争の指導者が靖国神社に合祀され、英霊として位置づけられていることに到底合点がいかないのである。 そのようなアジア諸国民の思いを自覚していくためにも、繰り返すが、いま私達日本人に求められているのは、「聖断」の虚構性を正面から批判し、「聖断論」の呪縛から開放されることであろう。それが成功したときに、初めてアジア諸国民の声の重さと意味を感知することができるのではないか。 そのことを通して、私達日本人は、アジア諸国民の一員として、迎え入れられるであろう。歴史のひもときは、私達の現在と未来を自由に、豊かにしてくれるための基礎作業である。【『「聖断」虚構と昭和天皇』:纐纈厚著:新日本出版社:177〜178頁[第4章:受け継がれる「聖断神話」]より】●遅すぎた「聖断」・いま、私の手元に、1988年6月23日の沖縄慰霊の日にちなんだ沖縄琉球放送(RBC)制作の特集番組「遅すぎた聖断—検証・沖縄戦への道—」の脚本がある。 ディレクターの中里雅之氏の脚本による番組は、昭和天皇の「聖断」が、1945年8月13日ではなく、もっと早くなされていたならば、同年の4月1日の沖縄本島・読谷(よみたん)への連合軍上陸によって本格化する沖縄戦の開始もなく、あの「鉄の暴風」と呼ばれた、壮絶な戦いの中で15万人という死者を出すことはなかったであろう、という歴史事実への思いが強く打ち出された優れた作品であった。 そこでのキーポイントとして特に強調されたのは、沖縄戦が開始される1ヶ月半前に近衛文麿によって昭和天皇に提出された早期の「終戦」を訴えたいわゆる「近衛上奏」に対して、「もう1度戦果を挙げてからでないと」と一蹴した昭和天皇の言葉であった。 戦力の底をついていた日本陸海軍の現実を直視することをせず、ひたすら沖縄守備軍と沖縄民衆に絶望的な戦いを強いた帝国陸海軍最高司令官としての昭和天皇の非合理的な判断と、「国体(=天皇制支配国家体制)護持」の1点にのみ執着する余り、甚大な犠牲を生み出すことになった、昭和天皇の〈不決断〉と〈無責任〉とを厳しく衝いた内容であった。・・・・【『「聖断」虚構と昭和天皇』:纐纈厚著:新日本出版社:179頁】※もちろん、沖縄戦の前に停戦もしくは終戦をしていれば、沖縄戦もなかったし、広島・長崎の原爆・日本の都市への多数の空襲・満州でのソ連参戦での大混乱もなかったであろう!!第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この世の地獄!731部隊・南京大虐殺
entry.14 昨日のつぶやき
【NIKKEI NET】子ども手当、混乱続く 首相、突如「滞納給食費に」 http://bit.ly/916iFB こんなちまちました議論は国会では要らん!もっと大戦略を論じよ。21:42 from web 【産経】コンビニ初、セブンで住民票を交付 渋谷など http://bit.ly/bR63T2 これは画期的なサービス。住基カード反対なんて言っている自治体はどんどん取り残される。21:37 from web 【asahi.com】君が代斉唱時の不起立者、氏名収集を継続 神奈川県教委 ...
昨日のつぶやき
entry.15 ベネズエラ戦ドロー
キリンチャレンジカップ2010でサッカー日本代表はベネズエラ代表と対戦し、0-0のドローでした。むむむ。残念。今シーズンの初戦。海外組抜きのチーム構成に若い力もかなり加わって、ちょっと期待感にあふれてたので0-0のドローは今ひとつ。同じドローでも1-1だときっともっと盛り上がったんだろうなぁ〜。・・・・っていうか、残業仕事の疲れで、帰宅してぼぉ〜っとしてたら、あっという間に19時。あわてて夕飯の準備にとりかかったので、前半は、チラミでした。それでもなつかしい顔がいっぱい。久々代表復活の小笠原に日本にもどってきた稲本、怪我から復帰の楢崎。たのもしいねぇ〜。中澤キャプテンのブログにおもしろい記事が・・・平成22年2月2日の記事http://www.bomber22.com/top.html若い力では、久しぶりの平山相太に金崎、香川。成長が楽しみです。 今日の君が代 またまた、少年合唱団。このパターン多いなぁ。なんでだろ?ミュージシャンがいいのに〜
ベネズエラ戦ドロー
entry.16 ちっとも踊らない4連戦の初戦
踊る大4連戦だかなんだか知りませんが、地上波でちゃんと代表の試合を観るのって11月15日のアウェイ南アフリカ戦以来。 ホームでの試合となると10月14日のトーゴ戦以来。 3ヶ月半ぶりのゴールデンタイムですか。 それにしても君が代を歌った大分市少年少女合唱団が非常に子供らしく、可愛い...
ちっとも踊らない4連戦の初戦
entry.17 日の丸・君が代!!
神奈川県はどうなっているの?おかしくない?(毎日新聞)国歌斉唱・不起立:教職員の氏名収集を継続…神奈川県教委 神奈川県教育委員会が国歌斉唱時に起立しなかった教職員の氏名を収集し続けている問題で、県教委は2日の定例会で、収集を継続する方針を決めた。県個人情報保護審査会は1月20日、07年に続いて「県条例で取り扱いを禁じる思想信条に該当する」と収集した情報の利用停止を求める2回目の答申を出したが、再び収集を強行することになった。 定例会では、情報収集について「学習指導要領に基づく指導で、思想信条に触れないのが大前提」との意見が大勢を占め、出席した委員5人が継続を了承、これまでに収集した情報も破棄しないことを決めた。「行政の公正確保のために設置した機関の答申を無視するのは悪質」と答申の順守を求める市民団体の請願は不採択とした。 この問題では、教職員らの不服申し立てを受けた審査会が07年10月に収集した情報の利用停止を答申。これを受け県教委が条例の運用について諮問した県個人情報保護審議会も08年1月に「収集は不適当」と答申した。これを受けて県教委は07年春までの情報を破棄したが、審議会答申が「最終的な職権行使は県教委に委ねられている」との判断を示したことなどから、08年以降も収集を続けていた。【木村健二】
日の丸・君が代!!
entry.18 東京都教育委員会
地方自治、地方行政、地方議会 ブログコミュニティ - 政治ブログ村10/01/24 22:35東京都で小中学校の土曜授業復活か 子供達にはがんばって勉強して立派になってほしい。 東京都教育委員会が小中学校の土曜日授業を上限月2回であれば認める通知を出したとのことです。ゆとり教育の問題が指摘される中、この案には大賛成 ...(続きを読む)また現場イジメの都教委・・・ところが記事をよく読むと、学校に理不尽な要求をする保護者(モンスターペアレント)が社会問題化しているため、東京都教育委員会は都内の公立学校・幼稚園の全教職員7万人に配る対応マニュアルをつくり配るとある。 ということは、このような保護者に ...(続きを読む)モンスターペアレンツ対策モンスターペアレンツ対策Q&Aなんてものを東京都教育委員会が配布したそうで。 もうあきれて何も言いたくないって感じ。 まぁ、何も言わないとこれで終わっちゃうから進めるけどね。 「モンスター親が来校したら玄関で出迎え」 ...(続きを読む)モンスターペアレンツ対策Q&A、全教員へ配布…東京東京都教育委員会は28日、小中学校などに理不尽な要求を繰り返し、「モンスターペアレンツ」とも呼ばれる保護者らへの対応策をまとめたマニュアルを作成した。 過去に起きた事例をもとに「Q&A」方式で対策を示す実践的なもので、3月までに全教員に ...(続きを読む)憲法の番人としての裁判所の役割を放棄した 東京高裁稲田龍樹裁判長 ...卒業式などで「君が代」の起立斉唱を命じた職務命令に従がわなかったこと理由に、東京都教育委員会が退職後の嘱託採用を拒否したのは違憲・違法だとして、都立高校の元教職員13人が都に一人当たり約560万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が28日、東京 ...(続きを読む)公立小中学校の土曜授業を容認 東京都教委、月2回を上限に東京都教育委員会は26日までに、都内の公立小、中学校が希望する場合、月2回を上限として土曜日に授業を行うことを認める通知を区市町村教委に出した。(続きを読む)公立小中学校の土曜授業を容認 東京都教委、月2回を上限に東京都教育委員会は26日までに、都内の公立小、中学校が希望する場合、月2回を上限として土曜日に授業を行うことを認める通知を区市町村教委に出した。 授業時間や学習内容を増やす新学習指導要領が小学校で平成23年度、中学校で24年度までに全面 ...(続きを読む)いじめを受けた子供の保護者に文書回答は拒絶 東京都教育委員会マニュアルいじめを受けた子供の保護者が「学校の対応に問題があった」などとして謝罪文を求めることが、理不尽な要求で、「モンスターペアレンツ」だというのが、東京都教育委員会の見解なのでしょうか? このマニュアルは、次のURLのページからダウンロード ...(続きを読む)いじめを受けた子供の保護者に文書回答は拒絶 東京都教育委員会マニュアル【写真】東京都教育委員会がある東京都庁 モンスターペアレンツ対策Q&A、 全教員へ配布…東京 東京都教育委員会は28日、小中学校などに理不尽な要求を繰り返し、「...(続きを読む)モンスターペアレンツ対策Q&A、全教員へ配布…東京|霧山修一朗くん ...東京 東京都教育委員会は28日、小中学校などに理不尽な要求を繰り返し、「モンスターペアレンツ」とも呼ばれる保護者らへの対応策をまとめたマニュアルを作成した。 過去に起きた事例をもとに「Q&A」方式で対策を示す実践的なもので、3月までに全 ...(続きを読む)東京都教育委員会による教員に対する「人事考課制度」について。東京都教育委員会による教員に対する「人事考課制度」について。東京都教育委員会は勤務評定で判断する「人事考課制度」を導入し、人事異動要綱も改悪したことにより原則3年で異動(校長の裁量でそれ以上も可)、さらに週案提出の義務化と・・・人事・労務の面で教員への締め付けを強化していると聞きました。また、上に睨まれると離島とか不本意な異動を命じられたりする為、何か問題が起きても誰かに相談出来なったり、職員会議での発言・挙手を控え校長の意向に楯突くことはせずに事無かれで済ませそうとするから職員間の人間関係も希薄になっているとも聞きました。「こうした傾向は日本全国の中で東京都が極端に突出している。教育委員に特殊な思想的傾向を持った人が目立つし、石原都知事の意向を反映していると言って間違いない。」「教職を志す学生たちの間で『東京がおかしい』という認識は常識になりつつある。」http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/06-04/060429tokyo-shokuinkaigi.htmという記事にもありますが、これがやはり事実なのでしょうか?(続きを読む)東京都教育委員会が公立学校に「国旗掲揚国歌斉唱」の通達を出したことを東京都教育委員会が公立学校に「国旗掲揚国歌斉唱」の通達を出したことを「思想信条の自由に反する強制だ」と反日左翼は謳う。 強制はいけない!と反日左翼は謳う。 こんなアホ理屈に何を手間取っているのか? それならば、どんな「通達」をも東京都教育委員会が出した時点で それは全て「強制」になる。 たった一人の教職員が「この通達は気に入らない」と感じたら、 「思想信条の自由」に反する強制となる。 まあいずれにせよ、通達は命令であり、強制である。 強制がいけないのなら、「通達」そのものを廃止せよ!と言うべきではないか? もちろん、反日左翼の本音はこうである。 通達を強制だなんて、誰も思っていない。 ただ、「国旗国歌」にイチャモンを付けたいだけである。 そろそろ、反日左翼どもにしっかり物申すべきではないか?(続きを読む)東京都の公立小中学校で現職の本採教員の方へ「東京都教育委員会による教員に対す....東京都の公立小中学校で現職の本採教員の方へ「東京都教育委員会による教員に対する【人事考課制度】について質問です。東京都教育委員会は勤務評定で判断する「人事考課制度」を導入し、人事異動要綱も改悪したことにより原則3年で異動(校長の裁量でそれ以上も可)、さらに週案提出の義務化に様式徹底が異常に厳しい事務作業・・・人事・労務の面で教員への締め付けを強化していると聞きました。また、上に睨まれると離島とか不本意な異動を命じられたりする為、何か問題が起きても誰かに相談出来なったり、職員会議での発言・挙手を控え校長の意向に楯突くことはせずに事無かれで済ませそうとするから職員間の人間関係も希薄になっているとも聞きました。 「こうした傾向は日本全国の中で東京都が極端に突出している。教育委員に特殊な思想的傾向を持った人が目立つし、石原都知事の意向を反映していると言って間違いない。」 「教職を志す学生たちの間で『東京がおかしい』という認識は常識になりつつある。」 http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/06-04/060429tokyo-shokuinkaigi.ht... という記事にもありますが、これがやはり事実なのでしょうか? 法令上は教育への「政治的介入」は違反としても、例えば大阪府知事による教委への打診はどうなのでしょうか?同様のことが都知事と都教委の間でも行われているのではないでしょうか? 一説によれば既に教育長をはじめ都教委の関係職員の多くが都知事の息がかかった者で構成されている為に、たとえ法令上の「政治的介入」を問われたとしても都知事が直接関与しているわけではない為違反にはならないように仕組まれているとも聞きます。(続きを読む)東京都教育委員会が通知した土曜授業容認は法令違反にはならないのでしょうか。東京都教育委員会が通知した土曜授業容認は法令違反にはならないのでしょうか。学校教育法施行規則には土日を休業日とすることが規定されています。このことが、学校五日制の根拠となってると思っていたのですが、今回の通知はこの法令に違反してはいないのでしょうか。(続きを読む)東京都教育委員会の「国旗への起立や国家斉唱」の通達は「強制」なのですか??? ...東京都教育委員会の「国旗への起立や国家斉唱」の通達は「強制」なのですか??? 国旗への起立、国歌斉唱がしたくなければ、卒業式を出席しなければよい。 卒業式に出なくても、卒業証書は貰えるで(笑)!!卒業式の出席を拒んだ者をムリヤリに卒業式に出させて、国旗掲揚国歌斉唱をムリヤリさせれば、「強制」となる。 卒業式に出席しながら、国旗掲揚の際に起立しなければ、立派な妨害行為となろう。 妨害行為は処分されて当たり前やろ?? 反日左翼どもは「強制」の意味を理解しているのか?? 、 2006年9月21日東京地方裁判所判決 処分された教職員のうち401人は、「国歌斉唱の起立・強制は、憲法で保障された思想及び良心の自由を犯している」として、都と都教委を相手取り、2004年1月から順次「強制される必要はないことの確認」と「処分を撤回する」ことを求め東京地方裁判所(東京地裁)に提訴した。 この裁判の判決が2006年9月21日にあり、東京地裁は (中略) 国旗への起立や国歌斉唱強制は「不当な支配」であり違反(教育基本法10条1項)であり、都教委のしたことは思想及び良心の自由を侵害した行き過ぎた処分 として、都と都教委に、国旗国歌の強制による処分の撤回と、原告1人当たり3万円の慰謝料を支払うよう命じる判決を出した。(続きを読む)
東京都教育委員会
entry.19 この世の地獄!731部隊・南京大虐殺
「ノブの日記」 のタグをクリックお願いします!!全世界の究極の祈り・願い!!「No more war!!」「武器よ!さらば!!」 「怨」きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!「日の丸」・「君が代」反対!!(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)新しい日本!!「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)(時効なき戦争責任・戦争犯罪)●731部隊『死の工場』(隠蔽された731部隊)(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)6章 人体実験—「秘中の秘」 !)安達(アンダー)では、長いリストができるほど多くの種類の病原体を扱っていたが、特にペスト、炭疽病、凍傷の可能性を試験することに重点が置かれていたようだ。1941年6月頃には、安達では、ペストを感染させた蚤爆弾を人体に試験していた。ある実験では、10名から15名の捕虜が、地面に立てられた杭に縛りつけられ、それから飛行機が10個以上の爆弾を実験場に投下した。結果は知られていないが、続く試験がその夏に行われたところをみると、有望だということになったに違いない。 次の実験では、15名の人間が地面に立てられた杭に縛りつけられた—「旗およびスモークの信号が、飛行機を誘導するために用いられる」。飛行機は平房を飛び立ち、実験場にくると、少なくとも「20個ばかりの爆弾を投下し、地上100〜200メートルのところに達せぬ内に炸裂し」、蚤が散乱し、その蚤が囚人に病原菌を感染させるのに十分な時間をおいた後、犠牲者たちは消毒され、観察するために平房に戻された。あいにく、その試験は不成功に終わり、その実験の責任者だった大佐を落胆させた。彼は同僚に「実験は好結果を生まなかった」と語っている。明らかに、爆弾の爆発力が過度に高い温度を引き起こし、その高温が蚤の「作用を非常に弱い」状態にしてしまったのである。結局、陶器製爆弾は、ペストを散布する媒介物としては効果的ではないという結論が出た。※いろいろな爆弾を作り、その実験を安達の野外実験場で人間を実際に杭に縛りつけて、行った。想像しただけでもぞっとする。また、その後、消毒されて平房で経過観察され、その後生体解剖されたのか?なんとも恐い実験である。 ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 夫ないしは妻の被害李秀芳(女、73歳)の証言 日本軍が南京を占領した時、私の家は!)馬巷でした。日本兵が入って来た3日目に、家に日本兵が何人か闖入して来たのですが、彼らは銃剣を、私の胸に着け、夫と息子の小毛とが私を守ろうとして、日本兵に続けて3太刀刺され、何日もせずに死んだのです。(陸文奎と周秀英が記録)●女たちの戦争と平和資料館常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)特設展証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち午後1時より6時まで入館料500円 休館 月・火 03−3202−4633 早稲田奉仕園AVACOビル2階jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 ※シャープの電子辞書パピルスの「日本史辞典」に「毒ガス戦」について次のような記述があった。毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。日本政府は考えてください!!日中合同集団検診に国のお金を!!毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!●731部隊と天皇 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。) 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】●巨大なプロジェクト:石井機関(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)ジュネーブ議定書の下で・・・・・・・ 日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・ 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。●昭和天皇の戦争指導 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)●国の公式見解 731部隊について国会で取り上げられたことがある。1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!! 東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。 すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。 さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。 しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。 一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのかな?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?資料は返されている?・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。●マッカーサー・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く—。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)・秘蔵の新妻ファイルから読み取れる「免責の系譜」。1945年秋に始まるアメリカ軍の尋問当初から、731部隊には戦犯免責が付与され、部隊幹部、関係者は戦後社会へ復帰の足がかりを確保した。そして47年に人体実験が発覚した際にも、最初の免責が効を奏し、実験データと引き替えにアメリカ本国からも公式に免責が確認された。これで彼らに、戦後の表社会を公然と歩む担保が名実ともに与えられた。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)・731部隊の調査は、占領軍の法務部ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。・九大事件・・・1948年8月横浜軍事法廷において、以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。・ニュルンベルグ医者裁判・・・医者裁判(いしゃさいばん、英: Doctors' Trial、独: !)rzteprozess)は、1946年12月9日から1947年8月20日にかけてアメリカ合衆国がニュルンベルクで行ったナチ戦犯法廷。ナチス体制下で重役の地位にあった医師や医療関係者を裁いた。ニュルンベルク継続裁判の中では最初に行われた裁判である。23人の被告人が裁かれ、うち7名が絞首刑となった。裁判長はワシントン出身のウォルター・ビールス(Walter B. Beals)が務めた。その他の裁判官としてフロリダ州出身のハロルド・セブリング(en:Harold L. Sebring)、オクラホマ州出身のジョンソン・クロフォード(Johnson T. Crawford)などがいる。なお、人体実験の中心人物であるヨーゼフ・メンゲレは行方不明のまま死亡扱いとなり、1980年代になって逃亡先のブラジルで死亡が確認された。※ニュルンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より) ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。・アメリカの生物戦計画アメリカ軍が生物兵器を本格的に研究し始めたのは42年。ソ連やドイツが20年代、日本とイギリスが30年代にそれぞれプロジェクトをスタートさせたことからすると、出遅れた感は否めない。40、41年には731部隊を中心とした日本軍の中国への細菌攻撃があり、敵国日本のそうした動きも兵器開発の動機の1つになったとみていいだろう。・・・・・1、朝鮮戦争開戦以降、生物兵器を「報復」目的のみに使う従来の政策が抜本的に見直され、軍内で「報復のみ政策」の放棄が提言された。2、戦局悪化を受けて50年以降、生物兵器生産工場の建設と野外実験が始まった。・朝鮮戦争2つ目の「免責の系譜」を確認できる事件が、「日本ブラッドバンク」創立のおよそ半年前に勃発している。50年6月25日開戦の朝鮮戦争である。戦線がこう着状態にあった52年2月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国はアメリカ軍の細菌戦を非難する声明を発表。3月にはソ連のマリク国連大使が国連総会でこの問題を取り上げた。・・・・北朝鮮と中国が組織した科学調査団「国際科学委員会」の報告書は、この流行ペストについて?過去5世紀の間、朝鮮でペストが発生したことはなかった。?事件のあった2月は土地の気候からみて人間のペストがはやるには3ヶ月以上早すぎる—などの理由から、「第2次世界大戦中日本軍が細菌戦に使った」ペストノミが原因と結論づけている。またこうした内容を補強するかのように、報告書は以下の点を指摘した。・52年の初めごろ、細菌戦の指摘が出始める前に、石井四郎が2回、韓国を訪問したとの新聞報道がある。・石井四郎の助手がネズミの大量生産のために飼育所を運営しているとの新聞報道がある。 一連の細菌戦疑惑と石井をめぐる上記の2つの指摘が真実だとすると、戦犯を免れた日本側と与えたアメリカ側との間に新たな“共犯関係”が成立する。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)●昭和天皇と731・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していたので、これらの部隊がどのようなものになろうと意図してのか知っていたはずである、と議論をする人もいる、軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)・『731部隊−天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。【『731部隊の生物兵器とアメリカ』:ピーター・ウイリアム/デヴィド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 65頁】・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)・終戦 (ウキペディアより)1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。・(参考)第731部隊を撤収する時、上官の命令は「貯金通帳などはもはや紙切れも同然だ。731と確認されるようなものは一切焼却せよ。一切痕跡を残してはならない」「引上げ荷物はなるべく身の回りのものだけにせよ。荷物は2つだけ」。そう言われて私たちは家具や調度の大事なものは一切残すか焼却し、つましい生活で貯蓄してきたお金も捨てた。釜山だったと思うが、朝鮮銀行で千円渡されただけであった。さらに、新京と釜山でも、「731の痕跡をとめるな」の厳命のもとに、手に持っているものを2度に渡って焼却させられた。私たち夫婦に残ったものは、着のみ着のままのほかには、息子憲一の骨箱1つと憲次のおむつが残っただけであった。 これが8年間にわたる軍への奉公の総決算であったのだ。ところが、金沢から東京・千葉へのトラック輸送で、私たちが危険を侵してまで運んだものは、焼却を命じた最高幹部の豊かな私財と、貴金属を含む高価な実験用具などだったのである。 その後幹部は、帰郷すると一切言わざる、見ざる、聞かざるで、すべてノータッチであった。内々の連絡はあるようだが、幹部内の情報は私たち下々の者には一切伝わってこない。 私たちに与えられた任務は、今にいたるも次の3項目で、その後解除することもなく、今日に続いている。 1、郷里へ帰った後も、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。 2、あらゆる公職には就かぬこと。 3、隊員相互の連絡は厳禁する。 である。今でも私の目にこびりついているのは、平房を去る前、石炭山に軍刀を抜き、仁王立ちになった石井隊長の鬼気迫る形相である。隊長は全身を震わせ声をはりあげた。「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすような事があったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と。(越定男著『日の丸は紅い泪(なみだ)に』より●南京大虐殺 ※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷した兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。 731はもっと無視されているのかも知れない。 昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?※皇族と南京大虐殺・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)●筆者が「聖断」の真相にこだわるのは、昭和天皇の戦争責任を明確にするためだけではない。それは、すでにさまざまな場で実行されてきた。それよりも、「聖断」そのものが戦前保守権力の戦後へのスライドの決定的要因であることを強調したいからである。その過程で昭和天皇の訴追が回避されて、天皇制が「象徴化」されることで延命を果たした。 それで、人間宣言から地方巡幸に始まる天皇の政治行為の中で、戦争責任を問われることなく、逆に戦後日本の復興と繁栄の最大の立役者とする作為的な位置づけが強行されていった歴史事実の究明が反故にされたことを問題としているからである。 言うならば、戦後日本の歴史は、その意味で虚構の産物としてあるのかもしれない。・・・・1980年代後半から90年代にかけて、アジア諸国民から一斉にあがった日本の戦争責任を問う声に対して、極めていびつな反応しか示し得なかった日本政府と日本人という問題の背後には、ここで指摘したような課題があったからである。 そのことは、昨今における靖国神社問題にも通底している。・・・・ 昭和天皇の信任を得て、首相の座についた東條英機内閣により開戦に及んだ戦争によって、甚大な被害を受けたアジア諸国民にとって、その東條英機ら、A級戦犯として処刑された軍国主義者と侵略戦争の指導者が靖国神社に合祀され、英霊として位置づけられていることに到底合点がいかないのである。 そのようなアジア諸国民の思いを自覚していくためにも、繰り返すが、いま私達日本人に求められているのは、「聖断」の虚構性を正面から批判し、「聖断論」の呪縛から開放されることであろう。それが成功したときに、初めてアジア諸国民の声の重さと意味を感知することができるのではないか。 そのことを通して、私達日本人は、アジア諸国民の一員として、迎え入れられるであろう。歴史のひもときは、私達の現在と未来を自由に、豊かにしてくれるための基礎作業である。【『「聖断」虚構と昭和天皇』:纐纈厚著:新日本出版社:177〜178頁[第4章:受け継がれる「聖断神話」]より】●遅すぎた「聖断」・いま、私の手元に、1988年6月23日の沖縄慰霊の日にちなんだ沖縄琉球放送(RBC)制作の特集番組「遅すぎた聖断—検証・沖縄戦への道—」の脚本がある。 ディレクターの中里雅之氏の脚本による番組は、昭和天皇の「聖断」が、1945年8月13日ではなく、もっと早くなされていたならば、同年の4月1日の沖縄本島・読谷(よみたん)への連合軍上陸によって本格化する沖縄戦の開始もなく、あの「鉄の暴風」と呼ばれた、壮絶な戦いの中で15万人という死者を出すことはなかったであろう、という歴史事実への思いが強く打ち出された優れた作品であった。 そこでのキーポイントとして特に強調されたのは、沖縄戦が開始される1ヶ月半前に近衛文麿によって昭和天皇に提出された早期の「終戦」を訴えたいわゆる「近衛上奏」に対して、「もう1度戦果を挙げてからでないと」と一蹴した昭和天皇の言葉であった。 戦力の底をついていた日本陸海軍の現実を直視することをせず、ひたすら沖縄守備軍と沖縄民衆に絶望的な戦いを強いた帝国陸海軍最高司令官としての昭和天皇の非合理的な判断と、「国体(=天皇制支配国家体制)護持」の1点にのみ執着する余り、甚大な犠牲を生み出すことになった、昭和天皇の〈不決断〉と〈無責任〉とを厳しく衝いた内容であった。・・・・【『「聖断」虚構と昭和天皇』:纐纈厚著:新日本出版社:179頁】※もちろん、沖縄戦の前に停戦もしくは終戦をしていれば、沖縄戦もなかったし、広島・長崎の原爆・日本の都市への多数の空襲・満州でのソ連参戦での大混乱もなかったであろう!!第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この世の地獄!731部隊・南京大虐殺
entry.20 新婦人王寺支部ニュース 2010年2月号ができました・・今年に入り、ブログ・ランキング入り7回も
王寺町本町1丁目公園 冷たい雨の中、梅の花がほころび始めました。鳥が啄ばんだ柿の表皮が梅の枝に 今年に入り今まで以上に、このブログへアクセスしてくださる方が増え、過去最高時の更新が続きます。ブログランキング入りも、2010年度に入ってから1月度だけで6回もあり、また週間でも初ランキング入り1月 3日 8293位 / 134万5641 ブログ中1月20日 5429位 / 135万4150 ブログ中1月21日 6359位 / 135万4714 ブログ中1月22日 6314位 / 135万5218 ブログ中1月25日 9444位 / 135万6845 ブログ中1月29日 8109位 / 135万8828 ブログ中1月30日 8343位 / 135万9329 ブログ中また初めて、週間ランキング入りも果たしました。 1/17〜1/23 9351位 / 135万5704 ブログ中この週の1週間アクセス数到達点は、閲覧数で 3192pv 訪問者数で 1183ip となっていました。2007年6月24日に、このブログを立ち上げてから、2年6ヶ月が経ちます。毎日更新も続いています。現在のアクセス数到達点は(2010年1月31日時点で) 閲覧数で 18万5000pv 訪問者数で 8万0000ip となっています。今年に入り以前にも増して、このブログを愛して下さる方が増え、ブログ編集者の一人として本当に感謝の気持ちで一杯です。同時に、責任の重さも日毎感じています。みなさんのこのブログへのより一層の応援をお願いし、また多くの投稿を心よりお待ちしています。2010年度2月号の新婦人王寺支部ニュースができましたので、お届けします。今日(2/2)の「新婦人しんぶん」ポスト下ろしで、ポストになっている会員さんのお宅に届けますので、みなさんのお手元にはもうすぐです。「リズム小組」の今年度イベント企画案も、掲載されています。また、昨日(2/1)からは、各学校での卒業式・入学式などでの「日の丸・君が代」について、王寺町教育委員会・各学校への「申し入れ」の取り組みも始まりました。そして、2月6日(土)には、新婦人王寺支部「第15回支部大会」が開催されます。2年に一度の支部大会です。終了後、新年会も予定され、お弁当も出ます。支部常任委員会では、議案書・表彰・プレゼントなど、当日のプログラムもすでに準備万端です。全ての会員さんの参加で、支部大会を盛り上げ、大きな飛躍の明日に向け、レッツ・ビギン♪♪さらに、5月にニューヨークで開かれる「NPT(核不拡散条約)再検討会議」に、新婦人奈良県本部から代表2名が派遣されることになり、その内の一人に、わが王寺支部事務局長Nさんが選ばれました。5月までの2・3・4月は、何かと大変な年度末。お子さん・お孫さんなどの卒業・入学など、慌しい時期。みなさん、春先の体調にも気をつけ、新婦人王寺支部全体・会員さん全員の声を、ニューヨークへ♪♪ ほころび始めた梅の花に、雨露がきれい。近くのお宅では、蝋梅もみごと。氷雨の中の撮影で、風邪気味に
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